「言葉のプロ」としての存在意義が問われているスピーチライター(「産経ニュース」2016.9.5の不適切な表現に対する私の一考察)

スピーチライターの近藤圭太です。

産経新聞のWEB版「産経ニュース」の2016年9月5日の記事で、スピーチライターという職種について、その存在意義自体を否定するかのごとき表現がなされた。

【本文より】

中国浙江省杭州で開かれた20カ国・地域(G20)首脳会議の関連会議「ビジネスサミット」で、講演した習近平国家主席が古典から引用した語句を読み間違え、インターネット上で話題になっている。

習氏は講話などで古典の引用を好んでいるが、今回のハプニングによりスピーチライターの原稿を読んでいることが裏付けられてしまった格好だ。

 

指導的立場にある人が、スピーチの原稿作成をスタッフにしてもらうことは過去の歴史的なスピーチにおいてもごく当たり前に行われていることである。産経新聞は、「社会的分業」という言葉の意味を理解しているのだろうか。見識を疑う話である。

先日発生した「トランプ候補夫人のスピーチ盗用問題」にも関連する話だが、スピーチを行う人が原稿の内容を俯瞰的な目で確認し、自分の伝えたいこととズレがないか思索を巡らせ、最終的には自らの責任において採用を決断するのであれば、スピーチライターを使用したとしても何ら問題はない。

しかしこのような報道がごく当たり前のようになされてしまうことは、スピーチライターと名乗って仕事をしている人間にも原因があるのではないか。

今回の産経新聞による不適切な報道がなされた直後、メディアにおいて、「著名なスピーチライター」と認識されている人物に「風評被害を防止するため、あなたも意思表明をしたほうがいい」と伝えたが、私の確認するところ全くコメントを出しておられないようである。

さて、ここ数年、スピーチライターを題材にした小説やドラマなどのエンターテイメント作品がいくつか発表されている。「フィクション」としての娯楽性を発揮することに関しては、その作品自体で完結する話であり、私のような仕事をやっている人間と直接的な関連性はないが、実務の実態と温度差がある事柄に関しては、「説明」する必要があるのではないだろうか。

過去にも「警備員」が警察官のように「捜査」や「銃撃戦」を行うという『ザ・ガードマン』というテレビドラマが放映されていたそうだが、世の中の実態と接点のないフィクション性に絡め取られることなく、社会的に必要とされる一般的な職業として認知されている。

その背景には、「ガードマン」という言葉自体がメディアによって紹介されたとしてもそれだけで良しとするのではなく、日々の実務に励む中で業界としての地位を確立されてきた方たちの努力があったのではないだろうか。

今から遠くない将来、士業やコンサルティングのように、高い専門性を持った一般的な職業としてスピーチライターが地位を確立することを私自身強く念願しているが、今回のような偏った報道がなされているにも関わらず、一言も反論できないというのは情けない。

自らの職種に対する「プライド」といわれなき非難については反論するという「覇気」がなければ、社会から信頼されることはないのではないか。先に書いた著名なスピーチライターの方には、誠に失礼な表現になり申しわけないが、業界発展のためにあえて書かせていただいた。

 

私が「スピーチの代理作成」の仕事を始めたのは2009年のことである。当初はスピーチライターと名乗ってはいなかったが、数多くのクライアントの案件を重ねる中で、この職業には大きな社会的な意義があるという思いに至った。

まず一つは官民を問わず重要なポジションにいるリーダーが「高い発信力」を持つことができるということである。

高い「見識」を持ってはいても、ボキャブラリー能力(文章の組み立てや論理的な思考力は訓練すれば、かなりのレベルまで向上させることができるが)に長けていないため、損をしているリーダーを支援するためには、「言葉のプロ」の力が必要になるのではないだろうか。

もう一つ重要な意義としては、指導的立場にいる人にとって最も重要な仕事である「決断」に専念するための時間を確保できるということである。

これも前述したが、スピーチライターという言葉自体は新しいが、過去には事例が多くあり、新たな分野ではない。先人の知恵と経験に虚心坦懐に学びながら、日々の実務に励み、その上で「言うべきは言う」勇気をもって仕事に取り組んでまいりたい。

 

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